食べる 描く 読む ひと

走ったり泳いだり転んだり

自分を甘やかすこと

先週から仕事も、普段の生活も調子が出ず、「なんとなくツライ」という日が続いていた。急な気温の変化なのだろうと思って、長めにお風呂に入ったり、好きなものを食べたりして、自分に機嫌をとろうと試みたが、調子は出ない。

今朝起きて、ベッドの中で「ああ、もう無理だ」と思った。

仕事もなにもかも。

それでも会社に行かなきゃと、着替えて、化粧して家を出た。

外気にあたればなんとかなるだろうと思ったけど、起き抜けの口臭と化粧品と食品の臭いが混ざったようなにおいのする満員電車に乗った途端、「今日はもうやめ」という気持ちになって、衝動的に休むことを決めた。曲がりなり7年近く勤めてきて初めてのことだ。それっぽい理由で休む旨の連絡をいれ、そのまま新宿で映画を観た。

映画館には、会社員のような人が何人かいて、みんな私と同じような気持ちだったのだろうかと思った。お互いがお互い、秘密を共有しているような妙な一体感を感じた。

映画自体は、ずっと観たかった「A GHOST STORY」だ。

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幽霊の姿が印象的だ。途中から可愛く見える。

映像が美しく、おしゃれで、内容がしっかりあるタイプの作品ではないけれど、好きだった。頭がパンパンにならない、ただぼんやりとできるような映像が観たかった。

観終わって外に出ると、雨は止んでいて、いま何曜日の何時なのか一瞬わからなくて混乱した。

そのまま家に戻る。ずっと気になっていた、近所のカレー屋に入ってチキンカレーを食べた。お昼時を過ぎていたので、お客さんは男性1人しかおらず、華やかな異国の音楽が流れているにも関わらず、妙に静かに感じた。すぐに食べて、家に帰り、こんこんと眠った。

会社を休みがちの人が、なんだか許せなかった。その人は、ちゃんと正当な権利をもって休んでいるのに。

子供のときからそうだ。掃除をサボる子、宿題を忘れる子、学校を休む子。口には出さなくても、他人に厳しかった。ずっと。でも今日衝動的に休んで、映画を観、街をさまよい、カレーを食べ、眠って、そんなかたくなだった自分が馬鹿馬鹿しく、同時にかわいそうに思った。

かわいがってくれるのも、褒めてくれるのも、やさしくしてくれるのも、本当の意味で自分だけだ。今日一日自分を甘やかして、明日からまた頑張れそうだと思う。そして、やさしくしたい。疲れているあの人に、あの子に。「休んでいいんだよ。サボろう」って、声をかけたいな。

 

*イラストの日付が間違っているけど、今日観ました。

 

『停電の夜に』

 

停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に (新潮文庫)

 

 

ラヒリは少し前に『べつの言葉で』を読んだ。母国語ではない言葉が取り入れられ、体の一部となってなじんでいく様子が印象的で、まるで植物が水を吸い上げて伸びていくような気持ちのいいエッセイだった。「語学の勉強を頑張ろう」と背中を押された気持ちになったことも覚えている(数年続けているのに、全く上手くならないけれど)。

 

最近彼女の『停電の夜に』を読んだ。私の周りに本作が好きだと話す人が多く、そのひとりから借りた。
ふだん勢いに任せて読んでしまうのだけど、『停電の夜に』は毎日少しずつ読んだ。丁寧に読みたいというよりも、なんとなく気持ちが疲れていて、でも何かを読みたいという状態だったからだと思う。
最初の表題作から、「あぁ好きだな」と思った。
生活とは、毎日とはこういうものだったと気づかされたのだ。
紙で手を切るようなヒリヒリとしたうすい痛み、季節のあいだに吹く心地よい風に目を細めるような一瞬の幸福感、傷つき傷つけながら形作られていく他者とのかかわり、数時間後の世界に対する不安と少しの希望を抱いて眠りにつく夜。日々起こる、記憶(記録)するまでもない小さなできごとを思い出して泣いた。悲しいことを思い出したわけでも、感動に打ち震えたというわけでもなく。
私が見て、聞いて、感じたことは(本当の意味で)私にしかわからなくて、私の人生は私のものでしかない。
何もないと思っていても、私はちゃんと物語を持っているのだと思った。
30を前にしても自意識でがんじがらめになっていて、過去を思い出しては後悔し、進んでいるんだか後退しているんだかわからない宙ぶらりんな状態でも、私の人生がなんだかとても素敵な物語に感じたのだ。
ささやかな日常が小さく光るような気がして嬉しかった。

なんとなく煮詰まってしまったとき、理由もなしに「あぁつらいな」と感じたときにまず頭に浮かぶ短篇集だと思う。

ちから

仕事から帰って、簡単なものを作って食べてから、ほそぼそと絵を描いてる。最近はデジタルでも描ける環境を揃えたから、準備も後片付けも楽で、しかも楽しい。

1時間くらい描いて、お風呂に入って眠る。静かで、ひとりを感じる時間だ。

ふとSNSなんかを見ると、自分がとても遠い場所にいるような、妙に寂しく思うときがあって「そっか、ずっと寂しいんだな」と気づく。たくさんの人が集まる会、にぎやかな社交場、とにかくたくさんの人と話そうとがんばって、とりあえずその場はうまくいくのだけど、心はずっとずっと遠くにある。見下しているのではなく、見上げている。明るくて、にぎやかで、眩しくて、怖い。でも、こんな風に寂しさを感じやすいタチなのに、にぎやかな場所を求めると、途端に心は孤独に引き寄せられてしまうのはもうずっと変わらないのだなと気づいて、自分のことが嫌になった。

一方で寂しさが私に、ただ役にも立たない絵を描くということを、会社に勤めながらも続けさせているのだろうと思う。 

皮肉なことに、寂しさが何かを作る原動力で、救いなのだろうか。

わかりあえないということを受け入れるために

仕事中、久しぶりにきついクレームの電話を受ける。どんなに言葉をつくしても消化しきれない怒りを、電話の向こう側から感じた。ぎりぎりのところでせき止めていたその人のストレスが、一気にあふれだしたような、理不尽で、理解ができなくて、でもかわいそうな電話だった。(あえて見下すような表現をするのは、自分のなかにわき上がった怒りや悲しみ、混乱を鎮めるため必要なことだと思う。)
鞄から携帯も取り出せないくらいの満員電車。ドアが開いて降りるとき、腰のあたりをぐいぐいと押されて、頭の中がチリチリとするようないらだちを感じた。
すれ違いざま、少しだけぶつかった人に舌打ちされる。その瞬間の顔が熱くなるような、恥ずかしさというか怒りというか、悲しみというか。

いくらご機嫌に過ごしていても、いつなにが起こるかわからない。
他人の怒りや悲しみや、理不尽をなるべく避けて生きていきたいと願う。
でも、もしご機嫌のいい人たちだけを集めたコミュニティに入ったとしても、きっとその場所にはその場所なりのドロドロとしたなにかがあるのかもしれないとも思う。
それに、私がそのドロドロになってしまう可能性も充分にあるのだから。

本当にたくさんの人がいる。
たくさんの人はそれぞれ個性があって、気持ちのムラがあるのは当然だ。
だから決して人はわかりあうことができないと、いろんな人が話すし、本や映画でも語り尽くされてきたことなのだろう。
それでもその「わかりあえない」ということについて、足がすくむくらい怖くなってしまうときがある。
そう感じるのは、先に述べたような出来事に遭遇したときだ。

強くならなければならないのだと思う。
強くて、優しくならなければ、すぐに辛くなってしまう。

だから何かに備えるように、最近は走ったり泳いだりしている。
絵を描いたり、本を読んだり、何かを作ったり、勉強したり。
自分磨きというよりも、辛いことが起きてもちゃんと元気になれるようにという願いもあるのだろうか、というのが最近の気づき。

お手紙

*前回書いた、人と別れてしまった記事ですが、自分のこととは言え読み返すとつらく、下書き状態に戻しました。せっかくスターをつけてくださったかたがいたのに、申し訳なく……。でも励ましかな? と思うと、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

 

中学の終わりくらいにはじめてブログを書き始めてから、もう15年弱くらい経つ。文章を書くことが好きだったというよりも、文章で自分の気持ちを“誰かに見てもらう”ことが好き、というか心のよりどころだった気がする(もう記憶が曖昧だけれど)。

 

今はもっぱらTwitterで、140文字のなかに思いをぶつける! なんてことはせず、今日食べたものや作った料理、当たり障りのない景色なんかをつぶやいている。日々の生活にすっかり織りこまれた「つぶやき」という行為の根っこにあるものが、10代からなんら変わらない「誰かに見てもらうことへの欲求」なのだろうと、少し恥ずかしくなる。

 

Facebookもやっていて、私のタイムラインには日々いろんな情報が流れてくるけれど、それこそ私がつぶやいていることと変わらない(ちなみにFacebookはあまり利用していない)。何を食べた、どこへ行った、誰と遊んだ、何を学んだ……とか。仕事の関係でフォローし合うことが多いせいか、年配の男性がちらほら友達(?)で、先に述べた当たり障りのない日常を更新しているのは、彼らが多い。偏見もあるかもしれないけれど、Facebookの年齢別ユーザー数が40代以上と聞くと、あながち間違っていないのかもしれない。あのエラいひとたちも、「誰かに見てもらいたい」と強く思っているのだろうか。

もう世間では議論しつくされていることだけれど「誰かに見てもらいたいことへの欲求」について、自分のなかでもう少し考えてみたい。「お母さん見てみて!」的な幼い頃からのものなのか、年齢を重ねるにつれて強くなっていくものなのか。

 

私のブログは、小さな島で、誰に届くでもない手紙を書き続けている感じに似ている。(その島は、イメージでいうとパイレーツ・オブ・カリビアンジャック・スパロウ島流しになった場所だ。綺麗だけど、本当に何もない。)

たまにお返事があったりして、そしてときどき島にやってくる人もいる。そんな奇特ですてきな人たちと、お話したり、お茶したりする。それからみんな、それぞれの島へ帰っていく……みたいなイメージだ。

そこには「誰かに見てもらいたい欲求」とは別の、もっと無邪気で、無意味なものだと思う。無意味という言葉が適当ではないと思うけど、例えるとお菓子のおまけにあるプラスチックのフィギュアやキラキラ光るシールみたいな感じ。

 

そんな小さな気持ちをひっそり隠しながら、今日も誰かに手紙を書いている。

 

祈りのような

30を目前に迎え、最近ますます絵を描くことが好きでよかったと思う。

うまいとかへたとか、賞を取ったとかとらないとか関係なく。

日々を過ごすなかで、仕事がつらくなっても、好きな人とうまくいかなくなってしまっても、絵を描くということは、冬の星みたいに私の中にあって、遭難せずに済んでいるような気がする。何にもなくなっても、描けるんだよと言われているような。

 

先のことを心配して立ち止まってしまうことも多いけど、描きたいものがまだあるから大丈夫。したいことも、会いたい人も、行きたい場所も、食べたいものも、読みたい本も、ほしいものも一つ一つ叶えていけば、怖いものなんて何もないんだなと思う。

 

2月に読んだ本。結構読んだつもりでも、まだ読みたい本があって困る。

 

 

東京モンタナ急行

東京モンタナ急行

 

 

 

 

 

カブールの園

カブールの園

 

 

 

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

 

 

 

80's エイティーズ ある80年代の物語

80's エイティーズ ある80年代の物語

 

 

 

 

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

 

どうかーー愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに

スラップスティック』より

 

 

食事と戸棚の奥

最近諸事情でお弁当を作っていないのだけど、夕飯で色々と試行錯誤している。

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今日はアスパラと舞茸の粉チーズ炒め。わざわざ写真で見せる必要もないけど、昨日いいお皿を買って、使ってみたくて。

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あと最近はカレーばかり作ってる。今回はバターチキンカレー。色々スパイスを使ってみるけど、深みにはまだ遠く。レシピ通り作っても、まだまだ研究の余地がある世界で楽しい。

 

料理や読書、最近はランニングなんかも始めて、独身生活を謳歌しているようだけど、ときどき突発的にさみしさやかなしみがやってくるときがある。本当突然に。

ホルモンバランスも落ち着いている時期で、お天気も良いのにだ。正体不明のかなしみに襲われてしまったあと、それらの感情の根っこを考えてみる。幼少期の思い出なのか、読んだ本なのか、そのときは気づかなかった誰かに言われた一言なのか……どれも合っているような気がするし、的外れのようにも思う。

戸棚の奥から、突然湧いてくる虫みたいだ。

奥のほうで、なにかが腐ってるのだろうか。