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走ったり泳いだり転んだり

『停電の夜に』

 

停電の夜に (新潮文庫)

停電の夜に (新潮文庫)

 

 

ラヒリは少し前に『べつの言葉で』を読んだ。母国語ではない言葉が取り入れられ、体の一部となってなじんでいく様子が印象的で、まるで植物が水を吸い上げて伸びていくような気持ちのいいエッセイだった。「語学の勉強を頑張ろう」と背中を押された気持ちになったことも覚えている(数年続けているのに、全く上手くならないけれど)。

 

最近彼女の『停電の夜に』を読んだ。私の周りに本作が好きだと話す人が多く、そのひとりから借りた。
ふだん勢いに任せて読んでしまうのだけど、『停電の夜に』は毎日少しずつ読んだ。丁寧に読みたいというよりも、なんとなく気持ちが疲れていて、でも何かを読みたいという状態だったからだと思う。
最初の表題作から、「あぁ好きだな」と思った。
生活とは、毎日とはこういうものだったと気づかされたのだ。
紙で手を切るようなヒリヒリとしたうすい痛み、季節のあいだに吹く心地よい風に目を細めるような一瞬の幸福感、傷つき傷つけながら形作られていく他者とのかかわり、数時間後の世界に対する不安と少しの希望を抱いて眠りにつく夜。日々起こる、記憶(記録)するまでもない小さなできごとを思い出して泣いた。悲しいことを思い出したわけでも、感動に打ち震えたというわけでもなく。
私が見て、聞いて、感じたことは(本当の意味で)私にしかわからなくて、私の人生は私のものでしかない。
何もないと思っていても、私はちゃんと物語を持っているのだと思った。
30を前にしても自意識でがんじがらめになっていて、過去を思い出しては後悔し、進んでいるんだか後退しているんだかわからない宙ぶらりんな状態でも、私の人生がなんだかとても素敵な物語に感じたのだ。
ささやかな日常が小さく光るような気がして嬉しかった。

なんとなく煮詰まってしまったとき、理由もなしに「あぁつらいな」と感じたときにまず頭に浮かぶ短篇集だと思う。

いつかどこかで

いつかどこかて会えたらなと思う。そしてそれは今ではなくて、10年以上先の話なのかもしれないとも思う。特定の信仰があるわけではないけれど、采配を決めてる何か大きな力が、会うのは今じゃないんだよと諭しているような、そんな想像。今はただ幸せを願い、微かな思い出を時々噛みしめながらそのときを待っている。それがいつになるのかわからないし、永遠に訪れないことなのかもしれないけれど、なんとなくどこかでまた会えるとぼんやり信じてる。

そんな微かな希望すらも、忘れてしまうときが訪れるのかもしれない。私の日々は、かもしれないばかりだ。

帆をなくして、制御を失った小さな船たちが、いつかどこかでという微かな希望を持ちながら大海をさまよっているような、それが私たちなのだろうか。

もう会えない人たちに、私はもう一度会いたいと、当て所なく広い広い海原をさまよっている。

ちから

仕事から帰って、簡単なものを作って食べてから、ほそぼそと絵を描いてる。最近はデジタルでも描ける環境を揃えたから、準備も後片付けも楽で、しかも楽しい。

1時間くらい描いて、お風呂に入って眠る。静かで、ひとりを感じる時間だ。

ふとSNSなんかを見ると、自分がとても遠い場所にいるような、妙に寂しく思うときがあって「そっか、ずっと寂しいんだな」と気づく。たくさんの人が集まる会、にぎやかな社交場、とにかくたくさんの人と話そうとがんばって、とりあえずその場はうまくいくのだけど、心はずっとずっと遠くにある。見下しているのではなく、見上げている。明るくて、にぎやかで、眩しくて、怖い。でも、こんな風に寂しさを感じやすいタチなのに、にぎやかな場所を求めると、途端に心は孤独に引き寄せられてしまうのはもうずっと変わらないのだなと気づいて、自分のことが嫌になった。

一方で寂しさが私に、ただ役にも立たない絵を描くということを、会社に勤めながらも続けさせているのだろうと思う。 

皮肉なことに、寂しさが何かを作る原動力で、救いなのだろうか。

ひとりごと

心は不思議と落ち着いて、でもどこか恋しさを胸に秘めている。寂しく思う。会いたいとすら思ってしまう。でもそれは恋というよりも、思い出をただなぞりたいという懐かしさなのだろうと思う。

あの人は夜の人で、夜になると現れる。夜の岸にずっといる気がする。いつでも。でも夜の岸にいるのは怖くて、結局できなかった。

断片的に思い出す。高速道路のオレンジの光、もうなくなってしまったレンタルカーのお店、青みがかった秋の空、冷えた空気にくっきりと映えるネオン、タイヤの転がる音、ベランダの目の前に光る少し欠けた月。どこを見てもあの人がいて、でもいつか忘れてしまうのだろうと思う。そのことは私をとても安心させるし、一方で切なくもさせる。

まだ私の気持ちはどこも行くことができず、この部屋を、この街を彷徨っている。きっと知らない土地、川の向こう側にはいない私の気持ち。

あの人は私を思い出すことがあるのだろうか? 私を恋しく思ったりするのだろうか? 後悔することがあるのだろうか? きっと最後の疑問はない。恋しく思うことも、ないだろう。それでいい。

ありもしないどこか未来で、私たちは上手くやっているのかもしれない。そんなことを思う。存在しない遠いところ。私はそんなあなたたちを祝福したいよ。何か美味しいものでもあげよう。

さよならは悲しいから、またいつかどこかで。

また一つお別れをする。数ヶ月前のような心も体もちぎれてしまうようなお別れではなくて、朝靄のような、蒸発していくようなお別れ。静かで、透明で、やわらかい。きっとこれから何度も静かで、やさしいお別れを繰り返すのだろう。

わかりあえないということを受け入れるために

仕事中、久しぶりにきついクレームの電話を受ける。どんなに言葉をつくしても消化しきれない怒りを、電話の向こう側から感じた。ぎりぎりのところでせき止めていたその人のストレスが、一気にあふれだしたような、理不尽で、理解ができなくて、でもかわいそうな電話だった。(あえて見下すような表現をするのは、自分のなかにわき上がった怒りや悲しみ、混乱を鎮めるため必要なことだと思う。)
鞄から携帯も取り出せないくらいの満員電車。ドアが開いて降りるとき、腰のあたりをぐいぐいと押されて、頭の中がチリチリとするようないらだちを感じた。
すれ違いざま、少しだけぶつかった人に舌打ちされる。その瞬間の顔が熱くなるような、恥ずかしさというか怒りというか、悲しみというか。

いくらご機嫌に過ごしていても、いつなにが起こるかわからない。
他人の怒りや悲しみや、理不尽をなるべく避けて生きていきたいと願う。
でも、もしご機嫌のいい人たちだけを集めたコミュニティに入ったとしても、きっとその場所にはその場所なりのドロドロとしたなにかがあるのかもしれないとも思う。
それに、私がそのドロドロになってしまう可能性も充分にあるのだから。

本当にたくさんの人がいる。
たくさんの人はそれぞれ個性があって、気持ちのムラがあるのは当然だ。
だから決して人はわかりあうことができないと、いろんな人が話すし、本や映画でも語り尽くされてきたことなのだろう。
それでもその「わかりあえない」ということについて、足がすくむくらい怖くなってしまうときがある。
そう感じるのは、先に述べたような出来事に遭遇したときだ。

強くならなければならないのだと思う。
強くて、優しくならなければ、すぐに辛くなってしまう。

だから何かに備えるように、最近は走ったり泳いだりしている。
絵を描いたり、本を読んだり、何かを作ったり、勉強したり。
自分磨きというよりも、辛いことが起きてもちゃんと元気になれるようにという願いもあるのだろうか、というのが最近の気づき。

お手紙

*前回書いた、人と別れてしまった記事ですが、自分のこととは言え読み返すとつらく、下書き状態に戻しました。せっかくスターをつけてくださったかたがいたのに、申し訳なく……。でも励ましかな? と思うと、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

 

中学の終わりくらいにはじめてブログを書き始めてから、もう15年弱くらい経つ。文章を書くことが好きだったというよりも、文章で自分の気持ちを“誰かに見てもらう”ことが好き、というか心のよりどころだった気がする(もう記憶が曖昧だけれど)。

 

今はもっぱらTwitterで、140文字のなかに思いをぶつける! なんてことはせず、今日食べたものや作った料理、当たり障りのない景色なんかをつぶやいている。日々の生活にすっかり織りこまれた「つぶやき」という行為の根っこにあるものが、10代からなんら変わらない「誰かに見てもらうことへの欲求」なのだろうと、少し恥ずかしくなる。

 

Facebookもやっていて、私のタイムラインには日々いろんな情報が流れてくるけれど、それこそ私がつぶやいていることと変わらない(ちなみにFacebookはあまり利用していない)。何を食べた、どこへ行った、誰と遊んだ、何を学んだ……とか。仕事の関係でフォローし合うことが多いせいか、年配の男性がちらほら友達(?)で、先に述べた当たり障りのない日常を更新しているのは、彼らが多い。偏見もあるかもしれないけれど、Facebookの年齢別ユーザー数が40代以上と聞くと、あながち間違っていないのかもしれない。あのエラいひとたちも、「誰かに見てもらいたい」と強く思っているのだろうか。

もう世間では議論しつくされていることだけれど「誰かに見てもらいたいことへの欲求」について、自分のなかでもう少し考えてみたい。「お母さん見てみて!」的な幼い頃からのものなのか、年齢を重ねるにつれて強くなっていくものなのか。

 

私のブログは、小さな島で、誰に届くでもない手紙を書き続けている感じに似ている。(その島は、イメージでいうとパイレーツ・オブ・カリビアンジャック・スパロウ島流しになった場所だ。綺麗だけど、本当に何もない。)

たまにお返事があったりして、そしてときどき島にやってくる人もいる。そんな奇特ですてきな人たちと、お話したり、お茶したりする。それからみんな、それぞれの島へ帰っていく……みたいなイメージだ。

そこには「誰かに見てもらいたい欲求」とは別の、もっと無邪気で、無意味なものだと思う。無意味という言葉が適当ではないと思うけど、例えるとお菓子のおまけにあるプラスチックのフィギュアやキラキラ光るシールみたいな感じ。

 

そんな小さな気持ちをひっそり隠しながら、今日も誰かに手紙を書いている。

 

良い経験させてもらいましたと言えるまでには

大切な人と別れてしまった。ここ数週間毎日、欠かさず、朝と夜泣いている。規則正しい時間に、咲いたり閉じたりする植物みたいに。

朝起きて「もうあの人に会えないのか」という事実で、涙が出る。夜寝る前に、朝と同じようなことを思って、涙。

「人間の体はほとんど水分だと言うけれど、確かにそうなんだなー」と妙に冷静な私もいて、でもそれはこれ以上傷つかないようにするための、自動モードみたいなものなのではないかと思う。

心の深いところで、なにかを交換した人だった。

なにかというのが、2人だけの秘密とか、大事なものとかそんな大それたものではなく、ただ「あなたといると楽しい」「一緒にいたい」みたいな希望。互いのなかから無理矢理引き出そうとしたり、勝手に作り上げようとしたり、奪おうとしたり、そんな一方的なものは一切なくて、ごく自然に発生したやわらかなものだった気がする。

その人といると、帰宅を促すチャイムが流れるまで公園で遊んだこととか、西日が射す友達の家でマンガを読んだり、64で遊んだ小学生の頃に戻るような、無邪気で、なにもかもバカバカしい気持ちになれるのが好きだった。

でも今は、もうない。

 

あまりにも悲しいことがあったのに、世界は淡々と進むという事実に驚かされた(当然なのだけど)。悲しすぎて、ベッドから起き上がれないなんてことがあるのかということにも。

驚きと、悲しみと、後悔と、色々な想いが寝ても醒めても襲ってきて、「みんな平気な顔して仕事したり、ご飯食べたりしてるけど、何人かの人はこんな経験しているのか」と思う。ひとつの別れがもたらすものがあまりにも多すぎて、「ちょっと、ストップ! ストップ!!」と叫びたくなる。

 

「いやー色々学びがありました。よかったです、経験して。」という余裕はとてもなくて、ただ感情の荒波に浮かぶ小舟であるほかない。

 

生きていれば色々とあるなんて言うけれど、本当そう。