食べる 描く 読む 女

よく食べ、よく描き、ほどほどに読み、たっぷり眠る動物好きなOLの日記

お手紙

*前回書いた、人と別れてしまった記事ですが、自分のこととは言え読み返すとつらく、下書き状態に戻しました。せっかくスターをつけてくださったかたがいたのに、申し訳なく……。でも励ましかな? と思うと、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

 

中学の終わりくらいにはじめてブログを書き始めてから、もう15年弱くらい経つ。文章を書くことが好きだったというよりも、文章で自分の気持ちを“誰かに見てもらう”ことが好き、というか心のよりどころだった気がする(もう記憶が曖昧だけれど)。

 

今はもっぱらTwitterで、140文字のなかに思いをぶつける! なんてことはせず、今日食べたものや作った料理、当たり障りのない景色なんかをつぶやいている。日々の生活にすっかり織りこまれた「つぶやき」という行為の根っこにあるものが、10代からなんら変わらない「誰かに見てもらうことへの欲求」なのだろうと、少し恥ずかしくなる。

 

Facebookもやっていて、私のタイムラインには日々いろんな情報が流れてくるけれど、それこそ私がつぶやいていることと変わらない(ちなみにFacebookはあまり利用していない)。何を食べた、どこへ行った、誰と遊んだ、何を学んだ……とか。仕事の関係でフォローし合うことが多いせいか、年配の男性がちらほら友達(?)で、先に述べた当たり障りのない日常を更新しているのは、彼らが多い。偏見もあるかもしれないけれど、Facebookの年齢別ユーザー数が40代以上と聞くと、あながち間違っていないのかもしれない。あのエラいひとたちも、「誰かに見てもらいたい」と強く思っているのだろうか。

もう世間では議論しつくされていることだけれど「誰かに見てもらいたいことへの欲求」について、自分のなかでもう少し考えてみたい。「お母さん見てみて!」的な幼い頃からのものなのか、年齢を重ねるにつれて強くなっていくものなのか。

 

私のブログは、小さな島で、誰に届くでもない手紙を書き続けている感じに似ている。(その島は、イメージでいうとパイレーツ・オブ・カリビアンジャック・スパロウ島流しになった場所だ。綺麗だけど、本当に何もない。)

たまにお返事があったりして、そしてときどき島にやってくる人もいる。そんな奇特ですてきな人たちと、お話したり、お茶したりする。それからみんな、それぞれの島へ帰っていく……みたいなイメージだ。

そこには「誰かに見てもらいたい欲求」とは別の、もっと無邪気で、無意味なものだと思う。無意味という言葉が適当ではないと思うけど、例えるとお菓子のおまけにあるプラスチックのフィギュアやキラキラ光るシールみたいな感じ。

 

そんな小さな気持ちをひっそり隠しながら、今日も誰かに手紙を書いている。