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走ったり泳いだり転んだり

わかりあえないということを受け入れるために

仕事中、久しぶりにきついクレームの電話を受ける。どんなに言葉をつくしても消化しきれない怒りを、電話の向こう側から感じた。ぎりぎりのところでせき止めていたその人のストレスが、一気にあふれだしたような、理不尽で、理解ができなくて、でもかわいそうな電話だった。(あえて見下すような表現をするのは、自分のなかにわき上がった怒りや悲しみ、混乱を鎮めるため必要なことだと思う。)
鞄から携帯も取り出せないくらいの満員電車。ドアが開いて降りるとき、腰のあたりをぐいぐいと押されて、頭の中がチリチリとするようないらだちを感じた。
すれ違いざま、少しだけぶつかった人に舌打ちされる。その瞬間の顔が熱くなるような、恥ずかしさというか怒りというか、悲しみというか。

いくらご機嫌に過ごしていても、いつなにが起こるかわからない。
他人の怒りや悲しみや、理不尽をなるべく避けて生きていきたいと願う。
でも、もしご機嫌のいい人たちだけを集めたコミュニティに入ったとしても、きっとその場所にはその場所なりのドロドロとしたなにかがあるのかもしれないとも思う。
それに、私がそのドロドロになってしまう可能性も充分にあるのだから。

本当にたくさんの人がいる。
たくさんの人はそれぞれ個性があって、気持ちのムラがあるのは当然だ。
だから決して人はわかりあうことができないと、いろんな人が話すし、本や映画でも語り尽くされてきたことなのだろう。
それでもその「わかりあえない」ということについて、足がすくむくらい怖くなってしまうときがある。
そう感じるのは、先に述べたような出来事に遭遇したときだ。

強くならなければならないのだと思う。
強くて、優しくならなければ、すぐに辛くなってしまう。

だから何かに備えるように、最近は走ったり泳いだりしている。
絵を描いたり、本を読んだり、何かを作ったり、勉強したり。
自分磨きというよりも、辛いことが起きてもちゃんと元気になれるようにという願いもあるのだろうか、というのが最近の気づき。